写生画へ転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 02:21 UTC 版)
天明8年(1788年)天明の大火で焼きだされた呉春は、避難所だった五条喜雲院で、偶然にも一時応挙と同居する。この時応挙は、「御所や門跡寺院に出入したいなら、漢画を捨てて狩野派や写生画を描かねば駄目だ」、と助言をした(『古画備考』)。呉春は師蕪村と異なり、俳諧と国文学には詳しかったが漢詩文の素養は無きに等しく、師亡き後も南画を描き続ける意欲や動機が薄かった。また、親しかった高井几董の死がきっかけとなったとする意見もある。いずれにしても呉春は、応挙の助言を取り入れ、文人画の味わいを残しつつ写実的な作風へと転進していく。この時、呉春は応挙に弟子入りしようとしたが、蕪村と交流があり呉春の画才を認めていた応挙は、呉春を莫逆の友として遇し(『松村家略系』)、「ただ共に学び、共に励むのみ」と答えたという逸話が残る(『扶桑画人伝』)。数年後の寛政7年(1795年)、二回目の大乗寺障壁画「四季耕作図」では、円山派風の作風へと変化している。同年応挙が亡くなると呉春は京都画壇の中心となり、その画派は呉春の住む場所から四条派と呼ばれた。呉春は合作が多い絵師であり、翌年も岸駒と合作した「山水図」(東京芸術大学大学美術館)を描く。晩年の呉春は、放埒な生活が祟ってか病気がちで健康がすぐれず、大作を依頼されても断ったという(上田秋成『胆大小心録』)。 文化8年(1811年)7月自宅で没する。享年60。法名は釈春譲。洛南の大通寺に葬られたが、大通寺が荒廃したため明治22年(1889年)9月、四条派の絵師たちによって松村景文と共々、金福寺の蕪村の墓隣に改葬された。
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