再占領されたクレタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:00 UTC 版)
「ギリシャ独立戦争」の記事における「再占領されたクレタ」の解説
一方でクレタ島へ上陸したエジプト軍(司令官ハサン・パシャ)はスダ港へ1822年5月に上陸した。当初、クレタ島東部での鎮圧には成功したが、西部ではギリシャ軍の激しい抵抗が続いた。そして、それまでギリシャ軍を指揮していたアフェントゥリウスに代わりトバズィスが義勇兵と共に送られたが、これに対してエジプト軍は司令官をヒュセイン・ベイに交代させたが、ヒュセインは洞窟に逃げ込んだキリスト教徒らを窒息させるなどのテロ的な手法を採用、クレタ島では村々に火が放たれ、住民らは追放された。 そのため、ギリシャ軍は徐々に追い詰められクレタ島東部へ撤退していたが、結局、クレタ島のギリシャ軍の大部分はカソス島へ退却したが、1824年4月、カソス島の人々はエジプトへ連行された。一部の部隊はモレア(ペロポネソス半島)に逃亡、1825年7月にクレタ島奪取を目指して900人の部隊がクレタ島へ上陸してキッサモス要塞の占領に成功したが、エジプト軍有利な状況は微動だにしなかった。 しかしナヴァリノの海戦が発生するとエジプト軍はクレタ島より撤退、さらにギリシャ軍も反攻を仕掛けた。そして1828年8月13日から14日にかけてカンディアでキリスト教徒虐殺事件が発生すると住民6,000人が蜂起を開始、これはクレタ島全土へ広がり1829年まで抵抗は続いた。 しかし、クレタ島は結局、この時、ギリシャへ編入されることはなく、1830年に結ばれたロンドン議定書によりオスマン帝国と定められ、さらに同年、ムハンマド・アリーの支配下となる。
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