内山彦次郎殺害とは? わかりやすく解説

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内山彦次郎殺害

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 10:20 UTC 版)

原田左之助」の記事における「内山彦次郎殺害」の解説

元治元年5月7日上洛中の将軍・徳川家茂下坂すると、新選組護衛一員として従い16日家茂海路江戸に発つと、彼らも帰京した。しかし、この時に内山彦次郎殺害のための隊士残留し、その機会伺っていた。内山様子探っていた彼らは、通勤ルート上の天神襲撃場所と定め20日夕刻より闇に紛れて南北両詰で待ち伏せた。「風説集」によると、午後8時を過ぎた頃、西町奉行退庁する内山護衛のついた駕籠揺られて天神橋渡ってきた。そして、中程達したところで、駕籠取り囲まれた。たちまち護衛武士駕籠舁き逃げ出し内山駕籠中に取り残された。そこへ左右より手槍突き込まれ、傷ついた内山駕籠から引き出されるとまず両腕切り落とされた。そして梟首するために首を落としたところで、渡ってくる人影があったので彼らは首を残したまま立ち去ったという。現場差し掛かったのは、関弥二右衛門一行だった。「新撰組永倉新八」「新撰組始末記」などを総合すると、内山襲撃メンバーは、沖田総司井上源三郎島田魁、さらに左之助の4人、あるいは土方歳三加えた5人だったと考えられる。彼らは日本橋欄干内山罪状書を掲げると、八軒家から淀川夜舟帰京したらしい。そして京都でも三条大橋はじめとする各所罪状書を貼り出すのだった。 なお、内山家では倒幕過激派による犯行だと伝えられている。

※この「内山彦次郎殺害」の解説は、「原田左之助」の解説の一部です。
「内山彦次郎殺害」を含む「原田左之助」の記事については、「原田左之助」の概要を参照ください。

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