兵数とは? わかりやすく解説

兵数

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 10:23 UTC 版)

四條畷の戦い」の記事における「兵数」の解説

師直軍の兵数については、『醍醐地蔵院日記』(『房玄法印記同年1月1日条)によれば第一軍師直軍だけでおよそ一万の兵数があったという。 なお、高師泰第二軍編成されていたが、『太平記』では師直とは別行動取って1月2日に堺に駐留しており、四條畷の戦いには参加していない。史料では師泰が堺に駐留していたことの直接的証拠はない。ただし、少なくとも史料では四條畷の戦い直後1月8日師直別行動取って古市羽曳野市所在)に駐屯し、そこから正行の館を焼き払うなどしている。 楠木軍の兵数については、『太平記』流布本では幕府軍楠木軍の兵力差は20:1のため、これをそのまま当てはめる楠木軍の戦力500人となる新井孝重によれば鎌倉時代最末期元弘の乱の頃の御家人は、平均20程度戦闘員と、馬丁荷物持ち等2–3人の非戦闘員連れていたという(ただし大雑把な平均であって御家人によって数人から100人以上と幅は大きい)。正行軍には最低29人の軍事指揮官死亡27人、大塚惟正、和田助氏)がいたから、指揮官自身含めると最低の兵数は29 * (1 + 20 + 2.5)=約682人で、500人とはそれほど外れていない。無論、これはほとんど死亡した指揮官に基づく最低兵数の概算であるため、生き残り含めた場合の兵数は不明

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兵数

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 05:51 UTC 版)

関ヶ原本戦の配置」の記事における「兵数」の解説

兵数に関して史料によって違い大きい。そのため、綱文に記載されているのは総数のみである。

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