公園以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 14:10 UTC 版)
「ワシントン・スクエア公園」の記事における「公園以前」の解説
この土地はかつて湿地帯であり、ミネッタ川 (Minetta Creek or Brook) が流れる狭い渓谷が土地を分断していた。17世紀初頭、ネイティブ・アメリカンのSapokanicanまたは"Tobacco Field"という村がこの付近にあった。オランダの入植者がやってきた後、このあたりの土地は彼らに収奪された。17世紀半ばまでには、ミネッタ川沿いではオランダ人によって農地が開拓された。オランダ人はこの土地を奴隷に自由に利用させた。これは、さらに南に位置していたニューアムステルダムの市街地をネイティブ・アメリカンの襲撃から守るための緩衝地とすることが意図されていた。奴隷たちはこの農地を自由に使えたが、収穫の一部は東インド会社に収めなければならなかった。黒人奴隷たちはこの土地を1643年から1664年まで所有することが許されていた。こうした理由から、現在のワシントン・スクエア・パーク周辺の土地は"The Land of the Blacks"と呼ばれた。 ミネッタ川の東岸は1797年4月にニューヨーク市議会 (Common Council) によって買い上げられ、農地は貧困者用の墓地(ポッターズ・フィールド) に転換された。19世紀初頭の黄熱病の流行により死んだ人たちもここに埋葬された。その当時もこのエリアはまだニューヨーク市の市域には含まれていなかった。 この公園の北西の角にあるニレの木は、首吊りのニレの木 (en) と呼ばれ、この木を用いて絞首(刑)が行われていたという伝説があるが、調査の結果ではこの木はミネッタ川の横に建つ家の裏庭に生えていた木で、公式の資料では1件の絞首が記録されているだけである。この墓地は1825年に閉鎖されたが、現在でも20,000以上の死体が公園に埋まっている。
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