先行の律令制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 15:59 UTC 版)
高句麗・百済・新羅にはそれぞれの律令制があり、初期の日本の部民制(令制国令制)はこれらに倣っていたことが伺える。唐王朝は、律令は天下に君臨する中国皇帝が制定すべき帝国法であると、周辺諸国の律令編纂を認めなかったとする説が有力となり、他の古代東アジアの国では施行されておらず、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである。唐国側も律令の日本での受容を知らず、遣唐使の朝貢品の織物への「調布」との律令的な記載を訝り問いただした例がある(『旧唐書 日本国伝』)。 日本では律令体制や律令国家と呼ばれるが、当然中国にはこのような呼称は存在しない。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある。
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