倉田準二とは? わかりやすく解説

倉田準二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/18 05:30 UTC 版)

くらた じゅんじ
倉田 準二
本名 倉田 準二(同じ)
生年月日 (1930-01-18) 1930年1月18日
没年月日 (2002-01-21) 2002年1月21日(72歳没)
出生地 神奈川県横浜市
死没地 京都府京都市
国籍 日本
職業 映画監督
ジャンル 時代劇
活動期間 1960年 - 2002年
配偶者 非公表(1958年 - 2002年)
著名な家族 倉田欣史(長男)
テンプレートを表示

倉田 準二(くらた じゅんじ、1930年1月18日 - 2002年1月21日)は、日本映画監督である。神奈川県横浜市出身[1]日本映画監督協会所属。

来歴

日本大学藝術学部映画学科1950年に卒業後、東映京都撮影所に入社[1]。伯父の黒川渉三は東映の前身の東横映画の社長であった。製作事務係を経て助監督となり、丸根賛太郎マキノ雅弘内田吐夢松田定次佐々木康らに師事。1958年8月3日に結婚。1960年、「夜霧の長脇差」で監督デビュー。工藤栄一らとともに東映時代劇の全盛期の監督として活躍する。1960年代後半からは邦画の斜陽化によりテレビ映画に進出。『仮面の忍者 赤影』(関西テレビ)では山内鉄也と交代でメインの演出を担当した。1980年代まで時代劇を作り続けた[1]

2002年1月21日肺炎の為、京都府京都市で死去(享年72歳)[2]

人物

倉田の演出術は正統派だが、特撮を駆使するなど、かなり工夫を凝らしている。

東映京都で共に助監督を務めていた平山亨の証言によれば、倉田は内容が画一的な時代劇の在り方にうんざりしており、他の監督が忌避するような忍者ものが好きであったという[3]。また『仮面の忍者 赤影』では、当時の主流であった野田高梧の『シナリオ構造論』に基づく手法とは異なる伊上勝の脚本を東映の監督陣が貶す中、倉田は伊上の脚本には「間」があるためそれに触発されてアイデアが浮かぶと評価していた[3]

監督作品

映画

テレビドラマ

関西テレビ
フジテレビ
TBS
ABC
毎日放送
NETテレビ→テレビ朝日

脚注

  1. ^ a b c 倉田準二氏死去/映画監督”. 四国新聞社. 2022年6月17日閲覧。
  2. ^ 読売新聞2002年1月22日夕刊19面
  3. ^ a b OFM仮面ライダー5 2004, pp. 27–29, 赤星政尚「特集 果てしなき闘いのドラマ 『仮面ライダー』脚本家列伝」

参考文献

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「倉田準二」の関連用語

倉田準二のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



倉田準二のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの倉田準二 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS