信康と築山殿の不行状と疑問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:47 UTC 版)
「松平信康」の記事における「信康と築山殿の不行状と疑問」の解説
家康を悩ませたものとして、信康や築山殿の乱暴不行状については『松平記』『三河後風土記』の両書が詳しい。信康については、 気性が激しく、日頃より乱暴な振る舞いが多かった。 領内の盆踊りにおいて、服装の貧相な者や踊りの下手な領民を面白半分に弓矢で射殺「殺した者は敵の間者だった」と信康は主張した。 鷹狩りの場で一人の僧侶に縄を付けて縊り殺した(狩の際、僧侶に出会うと獲物が少なくなるという因習を信じ、狩に行く際にたまたま出会った僧に腹を立てたため)。これに対して信康は後日、謝罪している。 徳姫が産んだ子が二人とも女子だったので腹を立て、夫婦の仲が冷え切った。 などがある。また、『当代記』にも、信康は家臣に対し無常・非道な行いがあったとしている。 築山殿については、「家康が今川方を裏切り織田方に付いたため、父が詰め腹を切らさせられたことを恨み、家康をひどく憎んでいた。そして減敬という唐人の医者を甲斐から呼び寄せて愛人にして、密かに武田氏に通じた」というものである。これらのうち特に減敬のエピソードについては築山殿を貶める中傷とする説もある。
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