佐渡帰郷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:16 UTC 版)
天保11年(1840年)5月、下野壬生藩鳥居家より太田熊山の代わりとして100俵による仕官の誘いがあったので、母に相談の手紙を出したところ、6月14日、父が重篤のため帰郷して家を継ぐよう返答があったため、7月1日帰郷した。故郷で義母に仕官の望みを訴えるも聞き入れられず、藤木竹窓の説得により夷町に定住し、義兄に学んだ医術をもとに医者となり、また義父の学古塾を再興した。 母の死後楼閣を立て、左思の句「山水に清音有り。」に因み清音楼と名付けた。嘉永元年(1848年)、家を増築して愛日書寮を設け、学舎とした。嘉永3年(1850年)3月20日大火に罹災した。文久3年(1863年)、羽田町西南端の赤川浜に新居を建てた。慶応3年(1867年)5月、屋敷の傍らに塾舎を新築した。
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