伝豊城入彦命の古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/02 04:02 UTC 版)
古老たちはなお、次のような話を伝えている。 豊城入彦命が、病を得て薨去されるや、崇神天皇はいたくその死を悲しまれ、せめてその遺体だけでも都へ運び、天皇の側近に葬りたいものと考えられて都から多数の人を遣わせて、命の遺体を都へ運ばした。 上野の人民は、この地方開拓の恩人であり、威徳の高い命の遺体をこの地に葬り、長く懇ろにその霊を弔いたいと懇願したが、この切なる願いも入れられず、遺体は都へ運ばれていくので、ついに堪りかねた民衆は遺体を碓氷峠で奪い返し、本街道よりそれ、しかも朝日差し夕日輝く丘を選んで葬った。その地が郷見神社裏山の古墳であるとするものである。 豊城入彦命の墓守として富沢一族が任じられ、代々その墓守の役についた。里見村七代目の村長、富沢柳太郎がその子孫であると伝えられている。 しかし、富沢柳太郎の四代前の祖先の時に、この墳墓に関する古記録と知らずに古物商に古文書を売った者がいたため、明治23年6月21日付けの官報で「豊城入彦命の陵墓を知るものは申出るべき」旨の告示がでた時、当代の富沢は、先祖伝来の槍、鏡等をもって出頭したが、不採用とされ、八方手を尽くしたが見つからず、ついには悶死し、その後継者である富沢新一郎も遺志をついで古文書の捜索に尽力したが、やはり見つからず死亡したとのことである。
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