伊雑ノ浦淡水湖化計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 16:04 UTC 版)
志摩市には大河川が存在せず、長年水不足に悩まされてきた。そこで、伊雑ノ浦を淡水湖化して灌漑をしようとする計画が持ち上がった。この計画の主体は農林省(当時)であり、正式名称は「志摩総合開発計画」。 これに対して、1956年(昭和31年)に伊雑ノ浦や的矢湾であおさやカキの養殖に従事していた漁業者らは、漁業への悪影響を理由に反発し、的矢かきの生みの親である佐藤忠勇の研究データを添えた陳情書を提出。計画は中止された。 反対運動の際に提出された陳情書は、志摩市歴史民俗資料館に保存・展示されている。 代替の水源として、1960年(昭和35年)に磯部町恵利原の神路川にダムを建設する計画がなされ、1968年(昭和43年)には恵利原ダムが、1974年(昭和48年)には神路ダムが完成した。なお、現在ではこれでも水が不足するため、南勢水道の多気浄水場(多気郡多気町)から一部送水を受けている[要出典]。 あおさ(ヒトエグサ)養殖中の的矢湾 的矢湾大橋から望む的矢湾 的矢湾大橋、東急リゾートマンションのヴァンベール伊勢志摩とロイヤルヴァンベール志摩的矢湾 横山展望台から望む伊雑ノ浦
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