伊集院領主時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 16:39 UTC 版)
第5代・忠国の時、南北朝時代が本格化する。当初忠国は島津宗家とともに北朝方にあったが、途中南朝方に加勢し入来院氏ら渋谷五族(高城氏、東郷氏、祁答院氏、鶴田氏)、菱刈氏を糾合、島津宗家と争いを繰り広げている。島津宗家が足利尊氏とともに南朝方に加わって以降の動向は不明だが、長らく島津氏の記録では「賊徒」とされていた。 島津宗家が九州探題・今川了俊と対立すると、第6代久氏は了俊からの誘いを断り宗家側につき今川勢を破る。以後伊集院氏は島津家の中で大きな発言力を持つようになる。第7代・頼久の代には宗家第7代当主・島津元久の死後、嫡子・煕久に宗家を継がせようとして元久の甥・久豊と対立。伊集院頼久の乱と呼ばれる大乱を引き起こした。両者は後に和解した。 第8代・煕久は伊集院郷石谷村(現在の鹿児島市石谷町)の所領を巡り町田高久と対立し、煕久が町田高久を一宇治城に招き妙円寺の山門付近で高久らを迎え討ち殺害したことに端を発し、再び島津宗家と対立する。宗家第9代当主・忠国に居城の一宇治城を攻められ煕久は肥後へ亡命。忠国・頼久・煕久の代には島津宗家と婚姻を重ね一時は宗家を凌ぐ領地を支配していた、と伝えられる伊集院家は没落する。 俊忠(生没年不詳) 久兼 久親 忠親 忠国 久氏 頼久 煕久
※この「伊集院領主時代」の解説は、「伊集院氏」の解説の一部です。
「伊集院領主時代」を含む「伊集院氏」の記事については、「伊集院氏」の概要を参照ください。
- 伊集院領主時代のページへのリンク