伊孚九とは? わかりやすく解説

い‐ふきゅう〔‐フキウ〕【伊孚九】

読み方:いふきゅう

中国清朝画家呉興浙江(せっこう)省)の人。名は海、号は莘野(しんや)。享保5年1720貿易商として長崎来航南宗画(なんしゅうが)風を伝え池大雅桑山玉洲日本の南画家大きな影響与えた生没年未詳


伊孚九

読み方い ふきゅう

清代画家船主康煕37年(1698)浙江省湖州生。名は海、号に莘野・匯川・也堂等、孚九は字。享保5年1720長崎に来舶し、20余年往来した山水画長じ、清の文人画伝え日本文人画壇に大きな影響与えた池大雅も孚九に私淑し南画究めた。また書も巧みである。来舶清人四大家一人没年未詳

伊孚九

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:40 UTC 版)

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伊 孚九(い ふきゅう、1698年 - 1747年?)は、中国清代中期の貿易商・画家。貿易商として長崎に度々来日し南宗画の画風を伝えた。池大雅桑山玉洲らが私淑し、その後日本の文人画壇に広まった。

名は海、は孚九(桴鳩)。は莘野・匯川・成堂(也堂)・雲水伊人などと称した。湖州府呉興県の人。

略伝

兄の伊韜吉から信牌(信任状)を受け継ぎ、享保5年(1720年)に初めて長崎に来舶。以降、延享4年(1747年)までに6度ほど渡航した。主に馬を商う貿易商で、清朝国禁の軍用馬幕府の御用馬として舶載してきた功労により褒賞を受けた記録が残されている。

余技として南宗画風の山水画をよくした。長崎の清水伯民が門弟となっている。桑山玉洲は『絵事鄙言』で「舶來清人中の逸格」と絶賛。また『近世名家書畫談三編』でも北宗画を伝えた沈南蘋とともに最上位に置かれている。池大雅野呂介石悟心元明らが、私淑し大きな影響を受けた。

孚九の名を全国に広めるに『伊孚九・池大雅山水画譜』が大きな役割を果たした。この冊子は韓天寿が縮模し画譜としていた稿本を、天寿没後木村蒹葭堂を介して中野素堂が刊行したものである。

なお、孚九と続いて渡来した費漢源張秋穀江稼圃を合わせて来舶四大家と呼ぶ。

代表作

関連項目

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