仁科と山中貞雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:27 UTC 版)
マキノと東亜の分裂後は東亜に残ったが、嵐寛寿郎が入ってきて、山中貞雄がこれについてきた。このころの映画監督たちは「活動弁士」に反感を抱いており、仁科も「自分の作品を無教養な弁士ごときに勝手に解説されてたまるか」との思いだったという。 このため仁科は「自分の作品はタイトルの字幕と音楽だけで理解できる」、ということをモットーとしていた。山中貞雄にもこれを教え込み、「洋画をよく観ろ、観ながらコンテをとれ、雰囲気や台詞ではないんだ、映画はカッティングなのだ」「バスとで芝居してそれをパッとロングに引いて、サスペンスの盛り上がったところをアップじゃなく逆にフル・ショットで舞台効果に持ってくる。これをヨーロッパやアメリカのすぐれた監督はやっている、勉強しなさい」と教え込んだ。「パンをする時は止めるカットの方が重要である」との山中の美学は仁科に学んだものである。「天才は若死にします。山中の場合は戦病死ですが、これからというときでまことに残念なことをしました」と山中を偲んでいる。 仁科は、「嵐寛寿郎という役者に出会って山中貞夫という才能は開花した」、「ちょっと嫉妬したくなるほど全面的に山中貞雄を信頼していました、寛寿郎氏は」と語っている。山中脚本の最高傑作は『むっつり右門』、『なりひら小僧』だとし、『なりひら小僧』では仁科がアラカンに「山中貞雄のシナリオでおやんなさい」と勧めたものだった。アラカンも山中の名を出すと逆らわなかった。仁科はアラカンと山中の『抱寝の長脇差』以前のかかわりが山中貞雄研究で「なぜか語られていない」と述べている。仁科自身も「忘れられました。ベスト・テンをついにとらなかったので」と自身の立場を語っている。 アラカンによると、仁科はなぜか『鞍馬天狗』を撮らず、これが理由でアラカンと喧嘩になった。あとで仲直りしたが、ぷいと寛プロを辞めていったという。山中が監督昇進したのは、「監督がいなくなってしもうた、お前いっぺんやってみいと、山中貞雄にお鉢が回ってきたとゆうのが真相でおます」とのことである。
※この「仁科と山中貞雄」の解説は、「仁科熊彦」の解説の一部です。
「仁科と山中貞雄」を含む「仁科熊彦」の記事については、「仁科熊彦」の概要を参照ください。
- 仁科と山中貞雄のページへのリンク