人間探求派のわれを呼ぶ牛蛙
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評 言 |
俳句思潮の遠い歴史の奥で「人間探求派」の呼称が浮上したのは昭和14年のことである。 辛酸な戦争の終結のあとの俳壇に、桑原武夫の「第二芸術論」のハードパンチが放たれたのが昭和21年。そしてこれらのキーワードの中心にいた一人が、加藤楸邨であつた。 後年、楸邨山脈と言わしめたほどに、俳誌「寒雷」には、金子兜太、森澄雄をはじめ、若き日の俳人たちが結集し、前述の第二芸術論争の反立と作品的結実も含めて、白熱した作句行為を展開していたに違いないのである。 和知喜八もその中の一人であった。伝説的なエピソードがある。当時の喜八は絶えず重厚なテーマに没入し、職場俳句、社会性俳句の旗手として脚光を浴び、楸邨に「スッポンの喜八」と呼ばれるほどに、主題への拘泥は執拗かつ強靭であったという。 まさに食らいついたら離さない。実作一筋のストイックで粘液質な作句姿勢だったのであろう。 喜八は昭和33年に自らも俳誌「響焰」を創刊し、7巻の句集を遺して平成16年に他界したが、どの句集のどのページを開いても、作風に底流している精神は、対象を通して人間を見据える、つまり人間探求に終始していたのである。 掲出句を再読するたびに、長い歳月を楸邨に同道し、その俳句精神を濃密に受け継ぎ、生涯堅持した志向への自負と矜持を牛蛙に託した、強い決意を感知するのである。さらに句意を探れば、楸邨への敬意とともに、自らを鼓舞しつつ同じ人間探求派の同志への限りないエールであった、と気づくのである。 |
評 者 |
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備 考 |
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