京橋川の雁木群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/30 11:23 UTC 版)
祇園新道こうへい橋から柳橋までの区間が土木学会選奨土木遺産に選定されている。ほぼ明治時代以降に個人単位で雁木・護岸を造ったものが現在まで残っている。個人で造ったため裏木戸のあるタイプや舟つなぎがあるタイプなど様々な種類の雁木が20m間隔で続き、更にこの区間には雁木を境に左右で護岸石積方法が異なっている所もある。 江戸時代、縮景園の北側の白島が武家町・寺町(城の鬼門)、園の南側の上幟町が武家町を形成していた。また城を洪水から守るため堤防が築かれた区間にあたる。 縮景園は、薬草園あたりの護岸が江戸時代のものを積み直したと推定されている。他は明治以降のもの。 上幟町に関しては明治時代に栄橋ができたことで、橋付近から南に向かって宅地化が進み、川に近い場所に居を構えたものがおのおの独自に護岸と雁木を築いた、と推定されている。 明治時代工兵橋は白島を拠点とした旧陸軍工兵第5連隊によって牛田にあった工兵隊演習場への連絡橋として架けられた。その上流側のこうへい橋白島側付近の護岸は、昭和初期に工兵隊が整備したものが現存している。 またこの区間には被爆によって焼けた箇所が存在する。 [全画面表示] -の範囲内を記載。 Clip 1945年米軍作成地図。 Clip 安芸国広島城所絵図。
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