交易港の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 04:39 UTC 版)
御手洗 上関 津和地 鹿老渡 三之瀬 忠海 布刈瀬戸 鼻栗 弓削 岩城島 鞆 近世における御手洗周辺の地乗りおよび沖乗りの港。赤が沖乗り、緑が地乗り、黄が共通。 古代において政府は、太宰府そしてその先の大陸を結ぶ交易ルートとして、更に荘園からの年貢や租税の運搬ルートとして、瀬戸内海に航路を作り港を整備した。当時の和船は艪漕き中心であったため、“地乗り”つまり陸沿いルートで港が整備された。交易ルートが確立すると海賊も横行し、時が経つと水軍が創設され戦も起こった。 江戸時代にはいり泰平の世になると、危険を避けるための地乗りから、瀬戸内海中央部を航行する“沖乗り”ルートが開発されていった。ただ当時の和船は一枚帆で追い風をはらんで更に潮の流れを利用して航行する構造であったため、暴風雨を避け順風を待つ「風待ちの港」上げ潮や下げ潮を待つ「潮待ちの港」が必要であった。 元々この島の主要港は大長(現在の豊町大長)であったが、大型廻船が寄港するには不向きな港であった。御手洗は寛永年間(1624年から1644年)において農耕地であり家屋敷は存在していなかった。そこへ風待ち潮待ちとして絶好の地である御手洗に船が寄港するようになる。当初は大長村の民が野菜や水などを売っていたが次第に拡大したため村民は広島藩に“町割嘆願”を出すと、寛文6年(1666年)藩はこれを許可し御手洗港が整備されていった。「港町」御手洗の歴史はここから始まる。
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