井戸覚弘 (戦国時代)とは? わかりやすく解説

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井戸覚弘 (戦国時代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/21 19:30 UTC 版)

 
井戸 覚弘
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 弘治2年(1556年
死没 寛永15年10月17日1638年11月22日
改名 覚弘→覚斎(法名)[1]
別名 通称:十郎、若狭守[1]
墓所 東京都文京区養源寺
幕府 江戸幕府旗本
主君 筒井順慶定次徳川秀忠
氏族 井戸氏
父母 父:井戸良弘、母:筒井順昭娘(筒井順慶[1]
兄弟 覚弘、治秀、直弘、筒井秀俊室[1]
女子松永氏人質)
土岐氏[1]
良弘、
辻子兼俊(筒井家家臣・辻子秀俊の養子)、山崎勝家室、伊勢貞晴室[1]
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井戸 覚弘(いど さとひろ[1])は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将旗本

孫に井戸覚弘[1]。子孫に、幕末長崎奉行江戸北町奉行などを務めた同姓同名の井戸覚弘がいる。

生涯

井戸氏大和国国人。父・井戸良弘尾張国へ赴いて織田信長に仕官する一方、覚弘は井戸城に残って2万を領し、筒井順慶とその養子定次に仕えた[1]。定次の伊賀国への転封に従い、朝鮮出兵の際は名護屋城へ赴く[1]。その後は織田秀信の配下で朝鮮へ渡り、武功を挙げた[1]。この褒美として、現地で茶碗10個を賜った[1]。覚弘はこの内5個を徳川家康に献上し、余った5個を豊臣秀頼に献上した[1]。家康は献上された内の1個を覚弘に返還したといい、これが井戸茶碗だとする説がある[1]。しかしそれ以前から井戸茶碗の名称は日本の記録にあり、定説ではない[2]

慶長13年(1608年)、主君・筒井定次が改易されると、大和柳生谷に隠棲し、慶長14年(1609年)に江戸に赴いて徳川家康、秀忠に謁見、3000石を得た[1]。そのまま秀忠の配下となり、常陸国真壁郡下野国都賀郡に合わせて3040石を賜った[1]大坂の陣では安藤重信の配下となり、重信の長男重長が若年だったため、命を受けて重長に代わって兵を率いた[1]寛永10年(1633年)に致仕[1]。長男良弘の石高の内、500石を賜って老後料とした[1]

寛永15年(1638年)10月17日死去、享年83[1]養源寺に埋葬された[1]

参考

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脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 「寛政重脩諸家譜. 第6輯」による。本文は685-686頁、コマ番号は351-352頁。
  2. ^ 申翰均『井戸茶碗の謎』バジリコ、2008年



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