井上良矩
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 文化4年11月27日(1807年12月25日)[1] |
別名 | 吉太郎、官治[注釈 1]、伊織[2] |
戒名 | 靖節院仁誉湖山了矩居士[1] |
墓所 | 平田寺[1] |
主君 | 田沼意次 |
藩 | 相良藩 家老 |
父母 | 父:井上郡太夫[2] |
子 | 直記[1]、成瀬正延の妻[3] |
井上 良矩(いのうえ よしのり)は、江戸時代中期から後期の武士、相良藩士。通称は伊織。
経歴
近江国甲賀郡妙感寺[注釈 2]の浪人・井上郡太夫の子[2]。延享3年(1746年)当時は幕府小姓組頭だった田沼意次の中小姓として出仕。昇進して家老に取り立てられる。石高は天明6年(1786年)の時点で600石を知行した[2]。意次が権勢を握るとその家老である良矩のそれも「殊更に時めきたり」という有様で、『甲子夜話』には船手頭・向井政香に灸を据えさせ、勘定奉行・松本秀持に灰を払わせていたという話が語られている[4]。
明和4年(1767年)相良藩主となっていた意次に相良城築城の許しが出るとその普請奉行に任じられ、翌年より相良へ下向してその総責任者を務めた[5][2]。安永9年(1780年)に普請は完了し、その功をもって井上家を永代家老とする黒印状を賜った[6][2]。
脚注
注釈
出典
参考文献
井上伊織
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:56 UTC 版)
近江国甲賀郡出身。諱は良矩(よしのり)。父は浪人の井上郡太夫。16歳の時から田沼家に仕え、22歳で家老となる。意次の信頼が厚く、当初は井上寛司といったが、意次の要望で伊織に改める。相良城築城の指揮をとる。後に意次から永代家老職を与えられ、子孫は代々田沼家に仕え続けた。
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