井上伝兵衛暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 02:33 UTC 版)
天保9年12月23日の夜、剣術家・井上伝兵衛が本庄に暗殺された。この暗殺の動機にも2つの説がある。 『天弘録』では、貸金の取立てを井上伝兵衛に頼んだところ、それを聞きいれないどころか意見を加えられた。本庄はそれを恨んで、伝兵衛を下谷御成小路で闇討ちにして殺害したという。平出鏗二郎の『敵討』では、こちらの説を取り上げている。 栗本鋤雲の『匏菴遺稿』に書かれた「鳥居甲斐陰険の噂」や、「奸物鳥居耀蔵」(森銑三著『史伝閑歩』所収)では、鳥居耀蔵が剣術の師匠である伝兵衛に内密に何事かを依頼したが、これをことわった上、逆に意見をした。鳥居はこれに怒り、また依頼したことが世間に知られるのを恐れて、本庄に伝兵衛暗殺を命じた、とされている。鳥居の依頼とは矢部定謙の暗殺で、鳥居は賢明で人望の厚い矢部定謙に近づこうとしたが、矢部は鳥居を警戒して近づけまいとしたことで、鳥居は今度は矢部を排除しようと企んだ。しかし矢部が清廉潔白でつけいる隙が無いため、暗殺をしようと井上伝兵衛に依頼したが断られた、とある(「奸物鳥居耀蔵」)。 井上伝兵衛は撃剣の師として相当に名の知られた人物だったが(『匏菴遺稿』)、本庄は伝兵衛の体躯に合うような竹の箍を桶屋に作らせ、伝兵衛の不意を突いて背後からその箍を嵌めた。両手の自由を奪われた伝兵衛は、本庄に斬りつけられて絶命したという(「奸物鳥居耀蔵」)。 なお、この井上伝兵衛暗殺が、後に本庄が護持院原で仇討ちされ、命を落とす原因となる(#護持院原の仇討ちの節を参照)。
※この「井上伝兵衛暗殺」の解説は、「本庄茂平次」の解説の一部です。
「井上伝兵衛暗殺」を含む「本庄茂平次」の記事については、「本庄茂平次」の概要を参照ください。
- 井上伝兵衛暗殺のページへのリンク