二・二六事件の鎮圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 23:05 UTC 版)
昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。この時の石原の態度について、昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。 この時、ほとんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は、反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。 安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて、石原の登庁を陸軍省入口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は、何もしなかった。 また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか」と威嚇的に訊ねられるも、「俺にはよくわからん。自分の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い、「こんなことはすぐやめろ。やめねば討伐するぞ」と罵倒し、栗原は殺害を中止し、石原は事なきを得ている。
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