主部隊での従軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/20 09:36 UTC 版)
サリバンは捕虜交換で釈放され、ワシントンが指揮した12月のトレントンの戦いに間に合った。この戦いではサリバンの部隊がトレントンの北にあるアッサンピンク・クリークに架かる重要な橋を確保した。このことでドイツ人傭兵部隊の逃げ道を塞ぎ、多くの捕虜を捕らえることに成功した。この時サリバンが採った進路は、現在サリバン・ウェイと呼ばれる主要道路になっている。1777年1月のプリンストンの戦いでも、サリバンは活躍した。 8月にスタテンアイランドを再度取ろうとした作戦で失敗し、また大陸会議がサリバンの落ち度を指摘することになったが、審問で無罪となった。これに続いてブランディワインの戦い、ジャーマンタウンの戦いで大陸軍が敗れた。イギリス軍のフィラデルフィア占領によって、大陸会議のイライラが募ったが、ワシントンが唯一大陸軍をまとめていく存在だったので、また鉾先がサリバンに向けられた。1778年早くに、サリバンはロードアイランドの重要でもないポストを割り当てられ、8月に起こったロードアイランドの戦いで失敗した。 1779年の夏、サリバンはニューヨーク西部のイロコイ族インディアンに対する大規模作戦であるサリバン遠征隊を率いた。この遠征では、現在のイサカ の南西にあるコレオルゴネルというかなり大きなカユーガ族集落を破壊し、虐殺を指揮した。 サリバンは部隊兵士にかなり過酷な行動を強いたので、馬が使えなくなってしまい殺すことになった。このことが現在のホースヘッドという地名の謂われとなった。大陸会議の反応はサリバンが考えた以上に手ぬるいものであった。疲れ果てたうえに、またしても大陸会議の否定的な反応にあって、サリバンは1779年に退役し、ニューハンプシャーに戻った。
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