中野浩 (青森市長)
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中野浩 なかの こう | |
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生年月日 | 1876年 |
出生地 |
![]() (現・青森県弘前市) |
没年月日 | 不明 |
出身校 | 明治大学法科卒業 |
前職 | 新聞記者 |
在任期間 | 1933年11月 - 1934年6月 |
淀橋区長 | |
在任期間 | 1932年10月1日 - 1933年11月2日 |
碑衾町長 | |
在任期間 | 1931年10月17日 - 1932年9月30日 |
在任期間 | 1926年8月8日 - 1930年8月7日 |
深川区長 | |
在任期間 | 1925年8月1日 - 1926年8月7日 |
その他の職歴 | |
赤坂区長 (1920年4月 - 1925年8月) |
中野 浩(なかの こう、1876年(明治9年)[1][2] - 没年不明)は日本の政治家。青森県青森市長。
来歴
青森県中津軽郡弘前に生まれる。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を経て[1]、明治大学法科を卒業する[1][2]。卒業後は台湾総督府官吏となったが、短期間で辞職した[1]。その後は、時事新報、東京毎日新聞の各記者を経て[1][2]、東京市に入り、赤坂(1920年4月から1925年8月まで[3])、深川(1925年8月1日から1926年8月7日まで[3])の各区長を務めた[1][2]。
1926年、青森市長に就任。在任中に東津軽郡滝内村と造道村の一部を編入[1]。練兵場の移転と青森港の拡張問題には苦慮した[2]。1930年に市長を退任。東京に戻り、碑衾町最後の町長(1931年10月17日から1932年9月30日まで[4])を務めた後に淀橋(1932年10月1日から1933年11月2日まで[3])、板橋(1933年11月から1934年6月まで[3])の各区長を務めた[1][2][5]。
脚注
参考文献
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
- 『青森県人名事典』東奥日報社、2002年。
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