千葉伝蔵とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 千葉伝蔵の意味・解説 

千葉伝蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/17 00:04 UTC 版)

4代 千葉 伝蔵(傳藏、ちば でんぞう、1890年明治23年)3月[1][2] - 1962年昭和37年[3]12月29日[4])は、大正から昭和時代の政治家実業家青森県青森市長。青森県多額納税者[1][2]。前名は覚郎[2]

経歴

白鳥鴻彰の三男として青森県東津軽郡荒川村(現青森市)に生まれる[3]1909年(明治42年)青森中学校を卒業し日本大学大原簿記学校、津田英文簿記学校に学んだ後、帰郷する[3]青森市役所に奉職したのち1910年(明治43年)魚問屋・千葉家の養子となり、1919年(大正8年)前名を改め4代伝蔵を襲名した[3]1920年(大正9年)青森製氷の創立に当たって出資し取締役に就任、1922年(大正11年)東京共同水産取締役となり東京隅田運送の取締役も務めた[3]1924年(大正13年)青森銀行監査役兼取締役、1926年(大正15年)青森県海産物商協同組合長、1927年(昭和2年)青湾貯蓄銀行監査役、青森電燈会社監査役、青森汽船取締役など歴任し、1931年(昭和6年)から缶詰製造を始め、1933年(昭和8年)業界から推挙され青森缶詰製造同業組合長、焼竹輪組合長に就任した[3]

政界では1928年(昭和3年)青森市会議員に当選し、1934年(昭和9年)同議長に就任[3]1936年(昭和11年)まで3期連続当選した[3]1932年(昭和7年)と1934年(昭和9年)には青森県会議員にも選ばれ、1936年(昭和11年)からは青森市長に3期連続当選し、1945年(昭和20年)薪炭事件により辞職するまで9年間市政を担当した[3]。市長在職中は三内霊園を造営し寺町の墓地を移転した[3]

戦後は公職追放となり[5]1946年(昭和21年)青森漁船組合長、1949年(昭和24年)青森魚市場社長、青森製氷社長を歴任[3]1953年(昭和28年)からは日中ソ国交調整促進同盟会長、県北洋出稼組合連合会長、県水産振興会長などを務めた[3]

栄典

勲章等

脚注

  1. ^ a b 帝国自治協会 1938, 91頁.
  2. ^ a b c 帝国秘密探偵社 1943, 青森14頁.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 東奥日報社 2002, 422頁.
  4. ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、21頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、37頁。NDLJP:1276156 

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  千葉伝蔵のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「千葉伝蔵」の関連用語

千葉伝蔵のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



千葉伝蔵のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの千葉伝蔵 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS