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中川文一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/02 09:36 UTC 版)

中川文一
Fumikazu Nakagawa
引退
国籍 日本
生年月日 (1947-10-06) 1947年10月6日(77歳)
出身地 京都府
キャリア情報
高校 京都府立城南高等学校
大学 東京教育大学
経歴
コーチ時代:
1971-1976 ユニチカ宇治
1976-2004 シャンソン化粧品
2004-2009 富士通
2009-2011 女子日本代表
2012-2021 トヨタ紡織サンシャインラビッツ
2021-2024 アイシン ウィングス
2024-2025 シャンソンVマジック

中川 文一(なかがわ ふみかず、1947年10月6日 - )は、京都府出身のバスケットボール指導者である。

来歴

田辺中でバスケを始め、京都城南高東京教育大で選手として活躍。

卒業後は指導者に転じ、1971年ユニチカ宇治のコーチに就任。日本リーグ2位、オールジャパン3位の成績を残す。

1976年シャンソン化粧品の監督に就任。初年度で全日本実業団バスケットボール競技大会初優勝となり翌年の日本リーグ昇格を決めた他、国体にも静岡県代表として出場し優勝。その後2003年まで指揮を執り、その間日本リーグ・Wリーグ優勝14回、オールジャパン優勝10回を誇る強豪にまで育て上げた。

1990年からは全日本女子のヘッドコーチも務め、20年ぶりの五輪出場となる1996年アトランタ大会へ導いた。世界選手権も2度出場。

1999年シドニー大会を逃し代表ヘッドを辞任。

2004年富士通レッドウェーブのヘッドコーチに就任。2006年オールジャパンで初優勝、2007年も2連覇へと導いた。リーグ戦でも2007-08に初優勝を挙げるなど富士通を強豪へ育て上げた。

2006年までシャンソンのヘッドを務めた李玉慈は2003年まで富士通のヘッドを務めており、2004年に中川と入れ替わる形となっていた。2006年のオールジャパン決勝はその両ヘッドの対決となった。

2009年、10年ぶりとなる女子日本代表のヘッドコーチに復帰した。なお、ナショナルチームのコーチは2009年より専任となるため2007-08シーズンを最後に富士通コーチは退任が確定した。専任コーチは2001年から2002年までの北原憲彦以来であるが、北原の場合は2001年に第一勧銀が廃部になったためであり、就任時から専任は中川が初となる。

2大会ぶりの世界選手権出場へ導いたが、2011年のアジア選手権でロンドンオリンピック出場権を獲得できなかった責任を問われ、事実上の解任となった[1]

2012年、トヨタ紡織サンシャインラビッツHCに就任。2021年退任[2]。その後アイシン ウィングスHC就任[3]

2024年5月16日、10年ぶりにシャンソンVマジックのHCに就任した[4]

2025年、シャンソンHCを退任[5]

経歴

参照

関連項目

先代
李玉慈
富士通レッドウェーブヘッドコーチ
2004 - 2009
次代
岡里明美



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