中宮=皇后の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/01 04:52 UTC 版)
藤原温子が延喜7年(907年)に薨去すると、皇太夫人の地位に就く者は絶えた。淳和天皇の皇后正子内親王の立后以来約100年、その間6代の天皇はいずれも皇后を立てることがなかったが、延喜23年(923年)、醍醐天皇は女御藤原穏子を皇后に冊立し、久しぶりに皇后を復活させた。このとき、皇后宮職ではなく中宮職が設置されて穏子に付置されることになった。中宮職が皇后に付置された最初の例である。このときはじめて中宮は皇后の呼称となる。穏子は、醍醐天皇の崩御と自らが産んだ朱雀天皇の即位にともなって皇太后に、さらに朱雀が同母弟の村上天皇に譲位すると太皇太后に転じたが、その間一貫して中宮職に奉仕され、中宮と呼ばれた。中宮職が令の規定に従って運用された最初のケースである。しかし、同時に最後のケースともなった。それに続く、村上天皇の皇后藤原安子、冷泉天皇の皇后昌子内親王も中宮職に奉仕され、中宮と呼ばれた。 天禄4年(973年)に円融天皇が女御藤原媓子を皇后に立てるに際し、皇后昌子を皇太后に移したが、このとき皇太后宮職が復活され、昌子に奉仕することになった。媓子には中宮職が付置され、これ以降は、中宮職は完全に皇后専属の官司として定着する。中宮はもっぱら皇后の呼称となったのである。若くして死去した媓子に代わって皇后となった藤原遵子も同様に中宮職に奉仕され、中宮と呼ばれた。この時期には皇后宮職が設置されることはなかった。
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