中国・唐代以降
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唐代に『荀子』を校訂した楊倞は、『孟子』は唐代の君子たちの多くが読んでいるのに『荀子』にはいまだ注釈がなく、テキストが混乱して意味が取れなくなっているので自分が校訂して注釈した、と『荀子』の自序に書いている。唐代には、すでに『荀子』は『孟子』に比べて読まれなくなっていた。唐代の韓愈は『原道』で儒学復興を提唱したが、その中で古代の聖人の道統を述べた。堯・舜・禹・湯王・文王・武王・周公の聖人たちが伝えた道は孔子に継がれ、その後に孟子に継がれ、その死後は道が断絶したと評した。そして荀子および漢の揚雄は、「選びて精(くわ)しからず、語詳(つまびら)かならず」(『原道』より)と聖人の道を選んで正しく伝えることができなかったと評したのであった。この韓愈の評価が、後の宋代儒学の道統の標準となり、孟子の後に現れた荀子は排斥される道を辿った。北宋の蘇軾は『荀卿論』を著して、王安石を暗に批判するために荀子を取り上げ、弟子の李斯の過ちが師の荀子に由来すると批判した。その後の中国思想を支配した朱子学においては、荀子は四書の一である『中庸』『孟子』を書いた子思・孟子を批判し、孟子の性善説を否定して性悪説を説く異端として、遠ざけられてしまった。ようやく清代になって考証学が盛んとなり、『荀子』もまた先秦の古文献として客観的な研究が行われるようになった。清末の1891年には王先謙が『荀子集解』を著した。
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