中井英夫との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:13 UTC 版)
7月27日以降、ふみ子は呼吸困難が顕著になったために酸素吸入が開始された。また咳の発作を抑えることを目的として麻薬の使用も開始された。翌日には医師は危篤状態にあると宣告した。死を前にしたふみ子が強く願ったことは、短歌の世界で名を成すきっかけを作ってくれた中井英夫に会ってから死にたいということであった。札幌から帰京した若月彰は、中井に対して早くふみ子のもとへ行ってやれと急かした。ふみ子の歌友もまた中井に電話を掛けて、中井に会いたいとのふみ子の最後の願いを伝えた。 中井は7月29日の午後、生まれて初めて乗る飛行機で札幌へ向かった。中井は資生堂でヴィーヴルという名の香水の日本語名が「生きる歓び」となっていたのに目をつけて購入し、オルゴールと造花とともにふみ子へのお土産として携えていた。危篤状態にあったふみ子のもとには、中井、若月そしてふみ子の歌を高く評価していた歌人の葛原妙子が、「中井が向かう」との激励の電報を打った。中井は夕方、ふみ子が入院している札幌医科大学附属病院の病室前に到着した。待ちに待った中井の来訪を聞いたふみ子は一言「いやっ!」と叫んだ。死の床にありながら、ふみ子は中井を迎えるために母に頼んでお化粧をしたのである。お化粧を済ませた後、ふみ子は中井を病室に招き入れた。 中井は8月1日まで札幌に留まった。中井も若月と同じく、ふみ子のベットの下にゴザを敷いて寝たと伝えられている。中井自身は後にふみ子とは歌の話は一度もしなかったとした上で、「実のところ他に何を話したのかもほとんど記憶にない」と書き記している。歌人の尾崎左永子によれば、夜、ふみ子のベットの下で休んでいると、月明かりの中、ふみ子が隣まで降りてきたと中井が語っていたと伝えている。 中井は7月17日付のふみ子宛の手紙の中で、「僕の大切なふみ子へ」と呼び掛けていた。そして札幌から帰京した8月2日夜に書いたふみ子宛の手紙は、これから毎日手紙を書くと記した後に、「小さな花嫁さんに」と、結ばれていた。8月3日に亡くなったふみ子は、その中井からの手紙を読むことはなかった。
※この「中井英夫との出会い」の解説は、「中城ふみ子」の解説の一部です。
「中井英夫との出会い」を含む「中城ふみ子」の記事については、「中城ふみ子」の概要を参照ください。
- 中井英夫との出会いのページへのリンク