世界革命論から一国社会主義論へ
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「一国社会主義論」の記事における「世界革命論から一国社会主義論へ」の解説
十月革命を成功させて権力を獲得したボリシェヴィキは、ロシア革命がただちにヨーロッパ革命を呼び起こすことを期待した。1917年10月25日、ペトログラード労働者・兵士代表ソビエトは「われわれが社会主義の大業を完全かつ強固な勝利をおさめるまで遂行するのを、西ヨーロッパ諸国のプロレタリアートがたすけるものと確信している」というレーニンの決議文を採択した。 しかしヨーロッパでの革命運動は次々に敗北し、ウラジーミル・レーニンが死去した1924年の時点で革命の展望はほとんどなくなっていた。レーニン死後の権力闘争の中で、スターリンはトロツキーの永続革命論に対する批判を開始し、ロシア一国で社会主義建設が可能だとする一国社会主義論をつくりあげていった。 トロツキーの理論は、一国における、しかも、おくれている一国における社会主義の勝利は、「西欧の主要な国々で」プロレタリア革命がまえもって勝利するのでなければ不可能であるという、メンシェヴィズムのありきたりの理論と、どこがちがっているか。本質的には、ちがったところは、なにもない。 スターリンは「一国だけの力で社会主義を建設しとげることができるかという問題」と「プロレタリアートの独裁をかちえた国は、他の一連の国々で革命が勝利しなくても、外国の干渉から、したがってまた、古い制度の復活からまったく安全であると考えることができるかという問題」を分離し、後者は否定したが前者は肯定した。一国での社会主義の勝利を「わが国の内部の力で、プロレタリアートと農民とのあいだの矛盾を解決すること」という国内の問題として見なしたことによる。 トロツキーはこの理論を世界革命の放棄と見なして激しく批判した。しかし権力闘争に勝ったスターリンの理論はボリシェヴィキの公式見解となり、各国の共産党へと普及していった。
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