下野、晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 16:08 UTC 版)
11月下旬に、清軍が武昌を包囲し、黎元洪らが危地に陥る。そのため12月10日に、楊藎誠は自ら黔軍(貴州軍)を率いて貴陽を出発し、救援に向かった。ところが貴州では、1912年(民国元年)3月、任可澄らの立憲派と劉顕世らの旧軍が雲南省の唐継尭の軍を招き入れ、張百麟らの革命派と趙徳全らの新軍を粛清して権力を掌握してしまう。その後、唐が貴州都督に正式に任命され、常徳に駐屯していた楊は貴州へ戻る術を失う。結局同年8月、楊は自軍を唐継尭に引き渡して、楊自身は北京入りした。 1915年(民国4年)の護国戦争(第三革命)では、楊藎誠は上海で孫文に会い、善後策を練った。1917年(民国6年)からは、北京政府の命を受けて四川に赴き、各軍の調停に動いた。また、北京に戻って四川駐京代表を務めた。1921年(民国10年)冬、楊藎誠は積年の疲労のため故郷に帰って静養につとめる。しかし翌1922年(民国11年)7月、死去した。享年43。
※この「下野、晩年」の解説は、「楊藎誠」の解説の一部です。
「下野、晩年」を含む「楊藎誠」の記事については、「楊藎誠」の概要を参照ください。
- 下野、晩年のページへのリンク