上野の争乱とは? わかりやすく解説

上野の争乱(武田氏滅亡後)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 03:22 UTC 版)

内藤昌月」の記事における「上野の争乱(武田氏滅亡後)」の解説

天正10年1582年3月織田徳川連合軍武田侵攻甲州征伐)により、武田氏滅亡する。昌月は信濃追われた父・正俊と、兄・保科正直箕輪城迎え入れた。そして上野一国拝領した織田家臣滝川一益入国すると、他の上国衆同様に一益に降り箕輪城明け渡した(この時、北条高広厩橋城を、真田昌幸沼田城それぞれ明け渡している)。 同年6月本能寺の変によって信長死去すると、甲斐信濃武田遺領を巡る天正壬午の乱発生する6月16日には武蔵国児玉郡上里町において滝川一益後北条氏の間で神流川の戦い起こり、昌月は滝川勢として戦った敗北し北条氏直降った一方保科正俊・直親子は北条方として信濃攻め入り高遠城奪還した。この時、昌月も高遠城遠征しており、同年8月には北条氏支援するために甲斐向かった保科正直暫く北条方にまっていたが、甲斐において徳川家康優勢に立つと、依田信蕃真田昌幸木曾義昌らが家康方に転じ、正直ら信濃国衆も徳川方転じた。この時、高遠城残されていた内藤家臣・十郎左衛門の兵5百は、城の外に追い出された。その後真田昌幸北条高広上杉氏転じ保科正直徳川勢として、天正13年1585年)の真田昌幸の上田城攻め従軍している。 天正11年1583年)には、北条氏邦箕輪城主となる。氏邦は箕輪拠点として、厩橋城北条高広沼田城真田昌幸攻めており、昌月もこれに従軍した。なお、『上毛伝説雑記拾遺』『箕輪軍記によれば、昌月は保渡田城(群馬県高崎市)に入城したとする伝承がある。 天正16年5月25日1588年6月18日)に死去する没年月を同年1月とする説もある。享年39。『保科御事歴によれば法名は「陽光院南華宗英。『井伊家家士由緒書によれば、跡を子の直矩が継いだ

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