上野の争乱(武田氏滅亡後)
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「内藤昌月」の記事における「上野の争乱(武田氏滅亡後)」の解説
天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)により、武田氏は滅亡する。昌月は信濃を追われた父・正俊と、兄・保科正直を箕輪城に迎え入れた。そして上野一国を拝領した織田家臣・滝川一益が入国すると、他の上野国衆と同様に一益に降り、箕輪城を明け渡した(この時、北条高広は厩橋城を、真田昌幸も沼田城をそれぞれ明け渡している)。 同年6月、本能寺の変によって信長が死去すると、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。6月16日には武蔵国児玉郡上里町において滝川一益と後北条氏の間で神流川の戦いが起こり、昌月は滝川勢として戦ったが敗北し北条氏直に降った。一方、保科正俊・正直親子は北条方として信濃に攻め入り、高遠城を奪還した。この時、昌月も高遠城に遠征しており、同年8月には北条氏を支援するために甲斐に向かった。 保科正直は暫く北条方に留まっていたが、甲斐において徳川家康が優勢に立つと、依田信蕃・真田昌幸・木曾義昌らが家康方に転じ、正直ら信濃国衆も徳川方に転じた。この時、高遠城に残されていた内藤家臣・十郎左衛門の兵5百は、城の外に追い出された。その後、真田昌幸と北条高広が上杉氏に転じ、保科正直は徳川勢として、天正13年(1585年)の真田昌幸の上田城攻めに従軍している。 天正11年(1583年)には、北条氏邦が箕輪城主となる。氏邦は箕輪を拠点として、厩橋城の北条高広、沼田城の真田昌幸を攻めており、昌月もこれに従軍した。なお、『上毛伝説雑記拾遺』『箕輪軍記』によれば、昌月は保渡田城(群馬県高崎市)に入城したとする伝承がある。 天正16年5月25日(1588年6月18日)に死去する。没年月を同年1月とする説もある。享年39。『保科御事歴』によれば、法名は「陽光院南華宗英。『井伊家家士由緒書』によれば、跡を子の直矩が継いだ。
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