三本松城の攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/14 03:52 UTC 版)
3月19日、晴賢の先鋒軍が三本松城の包囲を始める。三本松城には城下の村人らも籠城したとされる。晴賢は、津和野川を挟んで南側から三本松城を見下ろせる標高420mの山(現在の陶ヶ岳)に本陣(陶晴賢本陣跡)を置き、城の搦め手となる北側には江良を布陣させた。 4月17日に大内軍は総攻撃を行うが、籠城側は防衛に成功する。その後も、8月2日までに12回に及ぶ攻防戦が続くが三本松城は陥落に至らなかった。陶軍の包囲に伴う戦火により、鷲原八幡宮を含む周辺の寺社は焼かれたという。 さらに、三本松城の支城である下瀬城と御嶽城でも籠城が続いていた。そのうち、吉見領と益田領の境界に近い下瀬山にある下瀬城は、三本松城より直線距離で約10kmほど北方にあるが山々の尾根沿いに三本松城と繋がっていたとされ、三本松城を孤立させるために益田藤兼が攻めていた。藤兼は力攻めだけでなく様々な開城工作も行っており、3月下旬には吉見方の長野城落城を知らせて降伏を促したり、5月には「毛利が(陶方の)桜尾城を攻めたが、熊谷・三吉・小早川らの裏切りで敗退した」という偽の書状が下瀬城に届くよう工作したり、8月には「陶・吉見・益田・尼子の四者による和睦交渉が進んでいる」と伝えたりしたとされるが、いずれも退けた。なお、籠城の途中で正頼は、陶軍の猛攻に晒される三本松城から下瀬城に本陣を移している。
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