三本木芸妓時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 07:27 UTC 版)
一条家諸大夫の次男・難波常二郎(恒次郎)の養女となる。難波の妻は元々三本木の芸妓であり、初代「幾松」を名乗っていた。 安政3年(1856年)、14歳で三本木「吉田屋」から舞妓に出た。美しく利発で、芸事にも秀でた計は二代目「幾松」を襲名することとなり、瞬く間に有名な芸妓へと成長していった。幾松は笛と踊りを得意としたと伝えられる。 幾松の在籍した置屋は「瀧中」といい、維新後に「瀧中」は木戸所有となっている。土手町留守居役の木崎家は、月々木戸より送金される6両と三本木からの家賃収入でやりくりをしている。彼女の養父であった難波常二郎は、三本木別邸「瀧中」に住み、主に木屋町別邸のやりくりを任されており、その他京都での木戸の周りの様々な雑用を引き受けている。 幕末当時「瀧中」には幾松の妹芸妓・玉松と見習いのおもくがいたが、それぞれに維新後、河瀬秀治・佐畑信之と結婚し、仲人をしたのも孝允のようで、以後、木戸家とは親しく付き合っていた。
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