一簣抄と講釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/16 13:52 UTC 版)
序文において、「ある人物に源氏物語の講釈をする必要が生じたため」としている。文中に明記されてはいないが、「ある人物」とは著者近衛基煕の孫である近衛家久のことであると考えられる。 そのため本書の中には、しばしば「コレマテ講釈一座分也」や「コレヨリ講釈二座メ也」といった「講釈のための注意書」がみられる。さらには、天皇に対して講釈を行う時のための注意書きもみられる。明石巻において桐壷帝が亡霊となって光源氏の夢に現れた際、自身に「知らないうちに犯した罪」があることを語っているもののその内容について触れていないため、『河海抄』など古注釈においてこの罪が何であるかについての注釈があるが、本書では、天皇に講釈を行う場合にはこの点については触れるべきではないと注記している。 本書を利用しての講釈が行われていたことが、近衛基熙の日記『基煕公記』などに記されている。まだ本書を執筆中であった正徳3年8月25日(1713年10月14日)、この日『源氏物語』の講釈を行うとの記述が『基煕公記』に初めて現れる。この数日前である8月21日(同10月10日)には、同日付の家久宛書簡において、『源氏物語』2冊および『岷江入楚』2冊を用意するなど講釈の準備を指示している。また講釈の前日である8月22日(同10月11日)には講釈に備えて終日「抄」(=『源氏物語』の注釈書・おそらく本書のこと)を読んで過ごしたと『基煕公記』に記されている。その後、8月28日(同10月17日)、9月3日(同10月21日)、10月24日(同12月11日)、11月15日(1714年1月1日)に『源氏物語』の講釈が行われ、11月24日(1714年1月10日)に「桐壷」の講釈を終えるとの記述、11月28日(1714年1月14日)に「帚木」の講釈を始めたとされている。
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