ヴィータウタスの逃亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 03:44 UTC 版)
「リトアニアの内戦 (1381年-1384年)」の記事における「ヴィータウタスの逃亡」の解説
ヴィータウタスは1382年の秋まで投獄されていた。彼は夫に面会することを許された妻オナの手助けで脱出することが出来た。複数の史料が、ヴィータウタスはオナまたはその侍女と服を交換して女装し、監視の者に気付かれないまま城を脱出した、と述べている。ヴィータウタスは最初、妹のダヌテとその夫のマゾフシェ=ワルシャワ公ヤヌシュ1世から支援を受けようとしたが、後にはヤヌシュ1世の弟のマゾフシェ=プウォツク公シェモヴィト4世を頼った。結局、ヴィータウタスは仇敵であるドイツ騎士団国家へと赴き、ヨガイラと戦うための支援を要請した。マクデブルクのヴィガントによれば、おそらくヴィータウタスの逃亡の報復として、その母親であるビルテがブレストで溺死させられた。ビルテの親類であるヴィディマンタスとブトリマスも殺害されている。 騎士団は大した歓迎もせずにヴィータウタスを受け入れた。その頃、ヨガイラもドイツ騎士団との交渉に入っていた。1382年10月31日、両者は3つの条項から成るドゥビサ条約を締結した。これは、アンドリュスとケーストゥティス打倒を支援してくれたドイツ騎士団に対して、ヨガイラが支払った報酬と言えるものだった。この条約では、ヨガイラは4年以内にキリスト教に改宗して騎士団の同盟者となり、騎士団の賛同なしに戦争を起こすことを控え、未だにヴィータウタスを支持するドゥビサ川流域までのジェマイティヤを騎士団に割譲することを約束した。しかしながら、条約の批准は無期限に延期され続けた。その理由の一つには、ヨガイラが騎士団に相談なくマゾフシェ公国で戦争を始めたことで、両者の関係は冷えたことが挙げられよう。そして騎士団もまた、反目し合うヴィータウタスとヨガイラが互いに争うよう仕向けようとした。一部の歴史家は、この頃のヨガイラは既にモスクワないしポーランドとの同盟を考えていた、という説を提示している。結局、1383年6月に予定されていたヨガイラとドイツ騎士団総長との会談はもっともらしい口実をつけて開かれず、両者の同盟は崩壊した。
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