ヴィータウタスの遠征とは? わかりやすく解説

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ヴィータウタスの遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 03:41 UTC 版)

ヴォルスクラ川の戦い」の記事における「ヴィータウタスの遠征」の解説

ヴィータウタスは、リトアニア人ルーシ人ポーランド人モルダヴィア人ワラキア人からなる大軍勢を召集した。さらにドイツ騎士団援助取り付けるため、ヴィータウタスサリナス条約を結び、騎士団ジェマイティヤ領有するのを認めた一方でヴィータウタス義理の息子にあたるモスクワ大公ヴァシーリー1世は対ジョチ・ウルス包囲網参加しなかった。当時モスクワは公式にはジョチ・ウルス従属していた。連合軍1397年1398年1399年3度にわたりジョチ・ウルス領域侵攻した最初の遠征黒海クリミア半島にまで達したヴィータウタスさしたる抵抗受けず数千人の捕虜獲得したそのうち半数トラカイ付近に居を定め自身信仰を守る特権与えられた。彼らの子孫は、リプカ・タタール人もしくはクリミア・カライム人として現在に至るまでコミュニティ維持している。 1398年ヴィータウタスの軍はドニエプル川発ってクリミア半島の北を進撃しドン川まで至ったヴィータウタスドニエプル川河口に砦を築き、この地域における影響力固めたここまでの2回の大成功に気を良くしたヴィータウタスは「タタール十字軍」を宣言し1399年5月教皇ボニファティウス9世から祝福受けた。これは、自身百年に及ぶ十字軍を受け続け、わずか12年前の1387年キリスト教化受け入れたばかりのリトアニアにとっては政治的に極めて重要な業績となった遠征軍キエフ出発しドニエプル川沿いに進軍した。そして8月5日ポルタヴァのすぐ北に位置するヴォルスクラ川でタタール軍に遭遇した。この3世紀後の1709年、ほぼ同じ戦場ポルタヴァの戦いが行われている。

※この「ヴィータウタスの遠征」の解説は、「ヴォルスクラ川の戦い」の解説の一部です。
「ヴィータウタスの遠征」を含む「ヴォルスクラ川の戦い」の記事については、「ヴォルスクラ川の戦い」の概要を参照ください。

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