ヴィオレ・ル・デュクの選外となった計画(1861年)
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「ガルニエ宮」の記事における「ヴィオレ・ル・デュクの選外となった計画(1861年)」の解説
パースペクティブ 計画 横からの図 第2選考ではオリジナルの計画の速やかな修正と一層の厳格さが求められ、4月18日にただちに渡される、オペラ座の監督アルフォンス・ロワイエ(w:Alphonse Royer)によって書かれた58頁のプログラムがあった。新しい提出物は1861年5月半ばに審査員に送られ、5月29日にはガルニエの計画は、「その、計画の美の配置における、たぐいまれにして傑出した質とファザードとセクションの記念碑的かつ特徴的な様相(アスペクト)」によってえらばれた。 ガルニエの妻ルイーズはのちに以下のように書いている、フランスの建築家で審査員のアルフォンス・ド・ギゾール(w:Alphonse de Gisors)はつぎのように論評した。「ガルニエの計画は簡潔さ、明瞭さ、論理的さ、壮大さにおいて顕著であり、外観の性格のおかげで、3つの異なる部分、休憩所、観客席、舞台における計画とも区別されている…あなたは、第一選考から大幅に計画を改善した。一方で第1選考で1位となったジナン(Ginain)は自身の計画を台無しにした」。 言い伝えでは、ナポレオン3世の皇后のウジェニーが、お気に入りのヴィオレ・ル・デュクが選外になりいらいらするようになり、相対的に無名のガルニエに尋ねた「これは何?何様式よ?ルイ14世様式でもなければルイ15世様式でもなくルイ16世様式でもない!」と。するとガルニエは「なぜですか皇后陛下、これはあなたの夫君のナポレオン3世様式ですよ」と返答し「陛下は文句をおっしゃている」と。 アンドリュー・アイア―(Andrew Ayers)はガルニエの定義をいかのように書いている。 「議論の余地もなく、多くの人がそうだと言い残しているようにガルニエ宮は第2帝政という時代に作られたものの象徴のように見える。規範的な論理性よりも、日進月歩の技術の目もくらむ混交、あふれんばかりの電気と驚嘆すべき華やかさ、ガルニエのオペラ座にはその時代の散開した傾向と政治的社会的野心が凝縮されている」。彼はコンペの判定がガルニエのデザインを特に称えて「彼の計画の明瞭さ、それはボザール建築の(beaux-arts)のデザインのメソッドの輝かしき例でそこには彼とそれらは徹底的に熟達している」。
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