ングラ・ライの玉砕とインドネシア独立とは? わかりやすく解説

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ングラ・ライの玉砕とインドネシア独立(20世紀中葉)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 18:03 UTC 版)

バリ島」の記事における「ングラ・ライの玉砕とインドネシア独立(20世紀中葉)」の解説

1945年8月17日ジャカルタスカルノインドネシア共和国独立宣言。「小スンダ州」とされたバリでは親共和国派による統治体制確立画策されていた。しかし、戦前以来旧体制切り崩し進まず1946年3月には再びオランダ上陸し、親共和国派の企図失敗に終わる。このオランダ上陸に対して激しゲリラ戦展開され、そのクライマックスである1946年11月20日には、バリ島西部マルガにて、グスティ・ングラ・ライ中佐壮烈な戦死遂げ彼の率いていたゲリラ部隊全滅した(しかし、その勇名今日バリ島国際的な玄関口であるングラ・ライ空港デンパサール国際空港現地正式名称)にとどめられている。なお、この際には旧日本軍残留日本兵加勢がみられ、このこともあってか独立戦争後の現在、バリ人々対日感情良好である)。 このゲリラ戦鎮圧したオランダは、1946年12月バリを親オランダの「東インドネシア国」に帰属する自治地域として宣言し旧体制利用したオランダによる間接統治敷かれることになった。ただし、この中で共和国派と親オランダ派の抗争続き1949年オランダインドネシア共和国主権委譲をした後は共和国派が優勢になり、1950年独立をもって、ついにバリ共和国組み込まれることになった。 しかし、スカルノ時代バリ島社会大い乱れとりわけ国民党共産党による政治的な対立地域社会にまで及んだ1965年9月30日事件端を発する共産党狩りの際には、一説によるとバリ島だけで10万人が虐殺された。

※この「ングラ・ライの玉砕とインドネシア独立(20世紀中葉)」の解説は、「バリ島」の解説の一部です。
「ングラ・ライの玉砕とインドネシア独立(20世紀中葉)」を含む「バリ島」の記事については、「バリ島」の概要を参照ください。

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