ロンドンパラリンピックまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:41 UTC 版)
「中西麻耶」の記事における「ロンドンパラリンピックまで」の解説
北京パラリンピックの決勝で世界との差を感じたことから、2008年に渡米、サンディエゴのオリンピック・トレーニング・センターに練習拠点を移し、アル・ジョイナーコーチの指導を受けた。渡米後もたびたび一時帰国して国内の試合に出場し、日米を往復する生活を送った。2009年9月のジャパンパラリンピックでは走幅跳びでも日本記録を樹立した。 しかし当時、障害者が海外に拠点を置いて海外のコーチをつけることに対し批判も多かった。活動資金の調達にも苦しみ、渡航費用等の不足から2011年の世界選手権には出場できず、滞在費がひっ迫し車中泊をしながら練習を続けた。そこでスポンサーを見つけ、活動資金を捻出するため、2012年3月にセミヌードカレンダーを発売した。セミヌードカレンダーの撮影は、パラスポーツ写真を長年撮影している写真家・越智貴雄が行った。 2012年6月7日、AFP(フランス通信社)が東京発で、3月に発売したカレンダーの話題を配信し、以降、シンガポール・インド・イギリスなど世界各国でWebニュースなどのメディアに取り上げられる[要出典]。 このような逆風を受けながらも、2012年ロンドンパラリンピックに100m、200m、走幅跳びの3種目で出場を果たした。 ロンドンパラリンピックでの結果: T44 100m 14秒47 - 1組6/6・全10/12、予選敗退 F44 走幅跳び 4m79 - 全参加12選手中予選突破8名、決勝参加8選手中8位 T44 200m 30秒10 - 1組4/4・全9/9(1組参加した5選手中1選手が失格のため、出走選手は9名)、予選敗退
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