レーテ体制の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 05:33 UTC 版)
「スパルタクス団蜂起」も参照 エーベルトは共和国中央評議会との事前協議をほとんど拒否し、多くの場合は事後承諾に過ぎなかった、週二回行われるとされていた共和国中央評議会と政府の協議は数回しか行われなかった。軍を動かすのに必要とされていた兵士レーテの同意もほとんど顧みられなくなり、無視、あるいは無力化されるようになっていった。 独立社会民主党は政府の情勢が社会民主党有利に傾きつつあると判断していたが、12月24日の人民海兵団事件(ドイツ語版)の解決が不服であるという理由から、12月28日に仮政府から離脱した。1919年1月5日には独立社会民主党員の警視総監解任をめぐってスパルタクス団蜂起と呼ばれる暴動が発生した。共和国中央評議会には労働者から和解の要請が寄せられたが、結局何の行動も起こせず、スパルタクス団らは政府の派遣したドイツ義勇軍によって鎮圧された。政府内には「レーテ経済を中止させねばならない」「以前はレーテが権力保持者であったが、今は我々(政府)がそうである」という認識が高まり、レーテの解体に向けた動きが始まった。一方共和国中央評議会では、社会民主党員を含めてレーテを存続させるべきであるという動きが活発化するようになった。2月24日、共和国中央評議会は全権力を国民議会に委ね、政府の監視から身をひくという「ドイツ国民議会への中央評議会声明」を発表し、政治的権力としての中央評議会の活動は終焉した。
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