リベリアの功罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 08:10 UTC 版)
「ジェームズ・モンロー」の記事における「リベリアの功罪」の解説
モンローは、アメリカ植民協会(黒人解放奴隷のリベリア移住事業の一手に担った民間団体)の支持者であり、この植民活動にも積極的な支持を表明していた。この事業の第一船(エリザベス号)の植民者らが上陸してまもなく、現地の部族から拒絶され、無人島に閉じ込められた入植者の多くが黄熱病で死亡するという悲劇が起こると、モンローは海軍を出動させた。 モンローの面子に傷がつくことを恐れた将校らは、頑なに拒絶を続ける現地の王にピストルを突きつけ、二束三文の銃や雑貨と引き換えに広大な土地を手に入れた。これを機に入植者たちは自信をつけ、暴力的な方法で瞬く間に現地の部族から、今日のリベリアと重なる領土を奪った。リベリアの首都はモンローにちなみ、モンロヴィアと名付けられた。 しかし、この暴力的な方法は現代に至るまでのリベリアの矛盾(解放奴隷の子孫による現地民への差別)を決定付け、後世で非難されることになる。また、リベリアの建国は果たせたものの、入植者は1万人あまりにとどまり、植民活動も目的である解放奴隷の一掃は果たされなかった。
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