リトアニア大公国への編入とは? わかりやすく解説

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リトアニア大公国への編入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:53 UTC 版)

ポロツク公国」の記事における「リトアニア大公国への編入」の解説

リトアニアの『Bychovco年代記』(en)(注:リトアニア語表記)では、1190年に「リトアニアの公ミンガイロがポロツク征服し正教によってボリスという名を与えられ息子のギンヴィルに街を任せた」という記述があるが、この伝説に歴史的根拠はない。しかし1240年代初めからポロツクの地の公位にはリトアニア起源の名前を持つ公が就いている。1248年ごろ、リトアニア大公ミンダウガスポロツク公としてタウトヴィラス承認したが、すぐに彼の公の権力剥奪した1253年ミンダウガスとの和解の後、タウトヴィラスポロツク公戻り、ノヴゴロド・プスコフの軍と共にユーリエフ(現エストニア・タルトゥ)への遠征参加したミンダウガス暗殺されリトアニア大公国内乱勃発すると、1263年タウトヴィラストレニオタ殺害された。ポロツク公にはナリシャ公Gerdenis(lt)(注:リトアニア語表記)が就いていたことが認められるが、1267年死亡したタウトヴィラス死後、しばらくポロツク公について不明な点が多くなる1265年ごろの勅令一つの中で、ヴィーツェプスク公のイジャスラフという者が、ポロツク公として言及されている。また、ローマ法王クレメンス5世文書によると、1270年から1280年ごろにはコンスタンチンという者がポロツク公になっているポロツク公国14世紀初めに自治権保持しつつリトアニア大公国加わった1377年リトアニア大公ヨガイラ就いたヨガイラポロツクを弟のスキルガイラ与えた1386年スキルガイラポーランドとなったヨガイラポーランド王としてヴワディスワフ2世)から、リトアニア代官任命されポロツク公にはスキルガイラ前任者だったアンドリュスが再任した。しかしクレヴォの合同反対していたアンドリュスはリヴォニア騎士団スモレンスク公国同盟組み抵抗した敗北し捕虜となった。 再びスキルガイラポロツク公となったが、これが最後の公となった1392年ポロツク公国リトアニア大公国行政区画一つとなり、ナメストニクによって管理された。1504年ポロツク公国廃されポロスカス県となった。なお、首都ポロツク14世紀 - 18世紀にはリトアニア大公国主要都市1つであった。現在はベラルーシ・ヴィテプスク州の中心地区になっている

※この「リトアニア大公国への編入」の解説は、「ポロツク公国」の解説の一部です。
「リトアニア大公国への編入」を含む「ポロツク公国」の記事については、「ポロツク公国」の概要を参照ください。

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