リトアニア大公国期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/01 22:55 UTC 版)
リトアニアの支配下において、街は細分化され、ドルツキー家から派生した分家や、以前にドルツク公国の一部を受領していた人々などによって支配された。考古学的研究や文書史料は、当時のドルツクが重要な防衛拠点だったことを証明している。ドイツ人ヨハン・ゲオルグ・コルブの17世紀末の記述によると、16世紀のドルツクは周囲7マイルの広さがあり、200の美しい聖堂で有名だったが、過酷な戦争でことごとく焼失し、荒廃したという。考古学的史料によると、火災か包囲戦による街の崩壊は、15世紀末から16世紀初めのこととされる。 リトアニア大公国とモスクワ大公国との戦争で、ドルツクの所有権は両者の間を行き来した。17世紀までドルツク城が存在していたが、街も城も破壊と復元が繰り返された。ドルツクは政治・経済・軍事的価値を失い、またリトアニア・モスクワ双方への課税によって、人口減少が引き起こされた。
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