ルコームリとは? わかりやすく解説

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ルコームリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/10 23:19 UTC 版)

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ルコームリ
Лукомль
座標 : 北緯54度43分00秒 東経29度09分00秒 / 北緯54.71667度 東経29.15000度 / 54.71667; 29.15000
歴史
初出 1078年
行政
 ベラルーシ
  ヴィーツェプスク州
 地区 チャシニツキ地区(be)
 村落 ルコームリ
人口
人口 (2010現在)
  村落域 554人
その他
等時帯 FET (UTC+3)
郵便番号 211161
市外局番 +375 2133
位置図
ルコームリ (ベラルーシ)

ルコームリベラルーシ語: Лукомль)は、ベラルーシヴィーツェプスク州の自治体(Аграгарадок)である。ノヴァルコームリ(be)から5kmの位置にあり、付近にはルコームリ湖(be)がある。

歴史

ルコームリはポロチャーネ族の移住によりできた都市の一つである。年代記に初めて言及されるのは1078年の、スモレンスク公チェルニゴフ公ウラジーミル・モノマフと、ポロツク公フセスラフとの対立に関する記述においてである[1]。この時、フセスラフがスモレンスクノヴゴロド・セヴェルスキーを破壊した報復として、ルコームリはウラジーミル・モノマフによって荒廃させられた。その後、フセスラフによる所領の配分により、ポロツク公国からルコームリ公国が分割され、最盛期を迎えた。

14世紀リトアニア大公国が接収し、公国を所有した。また、ルコームリからŁukomscy(注:ポーランド語表記)が現れた。1563年には、リヴォニア戦争1558年 - 1583年)の過程でロシア・ツァーリ国の攻撃を受けた。

史跡

ルコームリ付近の、ルコームリ川の右岸には、約0.2ヘクタールの広さの城市跡があり[2]、考古学者によって再三の調査が行われた。2-5mの文化遺跡地層(ru)[注 1]は、異なる時代の層で形成されている。すなわちドニエプル・ドヴィンスク文化(ru)、バンツェロフシシィナ(ミンスク付近の地名)タイプの文化、中世ルーシ期(11世紀 - 13世紀)、リトアニア大公国期のものである。

出典

  1. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』267頁
  2. ^ Lukoml[リンク切れ]//Brockhaus and Efron Encyclopedic Dictionary
  3. ^ 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年 - p401

注釈

  1. ^ 「文化遺跡地層」はロシア語: Культурный слойの訳による[3]。日本考古学用語では「遺物包含層(文化層)」が近似する概念と考えられる。

参考文献

  • 國本哲男他訳 『ロシア原初年代記』 名古屋大学出版会、1987年。



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