ロスチスラフ・フセスラヴィチとは? わかりやすく解説

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ロスチスラフ・フセスラヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 06:34 UTC 版)

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ロスチスラフ・フセスラヴィチ
Ростислав Всеславич
ルコームリ公
在位 1101年 - 1129年

出生 1070年
死去 1130年以降
家名 リューリク家
父親 ポロツク公フセスラフ
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ロスチスラフ・フセスラヴィチベラルーシ語: Расціслаў Усяславічロシア語: Ростислав Всеславич、1070年頃 - 1130年以降)は、ポロツク公フセスラフの子である。1101年からポロツク公国分領公国の公となった。それはおそらくルコームリ公国であったと推定されている。その場合、1101年から1129年までルコームリ公であったことになる。

生涯

ほぼ全ての歴史家は、ロスチスラフをフセスラフの息子たちのなかで、年少の子であったと考えている。1101年に父が死んだ後、分領公国としてポロツク公国の一部を得た。L.ヴォイトヴィチの説では、フセスラフが得たのはルコームリ公国であったとみなされている。1129年までその受領した領土を統治した。1129年にはキエフ大公ムスチスラフ1世がポロツクへ進攻し、ポロツクの公の多くが捕虜となりビザンツ帝国へ護送されたが、ロスチスラフもこの中に含まれていたことが判明している。以降の消息は明らかではない。

子孫

妻の名は不明である。子についても年代記上に記述はない。V.タチーシチェフ(ru)は、1165年ヴィテプスク、ヴァシレフ、クラスヌィーを受領したロマン(ru)という人物を、ロスチスラフの孫であるという説を唱えた。また、ロマンの父称をブリャチスラヴィチであると指摘してもいる。この説のとおりであるならば、ロスチスラフにはブリャチスラフという名の子がいたことになる。

19世紀のA.ラキエフ(ru)は、『ロシアの紋章学』[注 1]において、ロスチスラフには2人の子がいたと著述している。すなわち、リトアニア大公ミンダウガスの子とされるモヴコリドと、Vitas(ru)、Gerdenis(ru)の父のダヴィル(ゲディミナス朝の先祖にあたる人物)とである[注 2]。しかしこの説は信憑性に欠け、現在は否定されている。

注釈

  1. ^ 「ロシアの紋章学」はロシア語: Русской Геральдикеの直訳による。
  2. ^ 「モヴコリド」はロシア語: Мовкольд、「ダヴィル」はロシア語: Давил転写による。また「Vitas」、「Gerdenis」はリトアニア語表記。

参考文献




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