リッツとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 04:07 UTC 版)
「オーギュスト・エスコフィエ」の記事における「リッツとの出会い」の解説
この時代のコート・ダジュールは冬の行楽地だったことから、夏期に厨房を任されていたルツェルンのホテル・ナショナルで、セザール・リッツと出会った。2人は協力することを約束し、エスコフィエは1890年、ロンドンのサヴォイ・ホテルに移籍した。この協力関係は、ローマのグランド・ホテルや世界中に散在するホテル・リッツなど、いくつもの有名ホテルの設立に結実することとなる。 サヴォイ・ホテルの料理長に就任したエスコフィエは、現在でも著名な料理をいくつも考案している。例えば、オーストラリアの歌手ネリー・メルバを記念して1893年に作られた「ピーチ・メルバ」というデザートや、食通として知られたイタリアの作曲家ジョアキーノ・ロッシーニを記念して名づけられた「牛ヒレ肉のロッシーニ風」(トルヌード・ロッシーニもしくはトルネード・ロッシーニ)などが挙げられる。 ところが、1897年、厨房内の膨大な数のワインの紛失や、エスコフィエが手数料をとって個人的に定員外の助手を雇い入れていたことなどが不祥事として表面化し、エスコフィエは責任を取って、リッツとともにサヴォイ・ホテルを辞した。 その後、エスコフィエとリッツは、1898年には、パリにホテル・リッツを、その翌年には、ロンドンにカールトン・ホテルをと立て続けにホテルを開業させている。この際に、エスコフィエはレストランに初めてコースメニューを導入している。 リッツは1901年に神経衰弱で倒れ、衰えが目立つようになった。エスコフィエはリッツの死後、1919年まで、リッツ・ロンドンやカールトン・ホテルの運営に携わった。この時期、後のベトナムの政治指導者ホー・チ・ミンがカールトン・ホテルの厨房に勤務しており、ペーストリー・シェフの見習いとしてエスコフィエの薫陶を受けている。
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