ラス(諸侯)の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)
「エチオピアの歴史」の記事における「ラス(諸侯)の反乱」の解説
18世紀の前半、北部のティグレ (Tigray) と西部のゴジャム (Gojjam) はアムハラ人との対立を深め、権力を巡ってしばしば内紛を起こした。特にラス(諸侯)として封じられた諸侯が実力を蓄えると、エチオピア帝国の支配層であるアムハラ-ショアに対して明確に反旗を翻した。その一部が首都ゴンダルへ向けて進軍すると、エチオピア皇帝イヨアス1世は祖母の皇太后メンテワブとの協議の上、ティグレ人の中でもトルコから大量の火器を購入して随一の軍事力を誇ったミカエル・セフルに救援を求める。当時、エチオピア最大規模のマスケット銃部隊を持つゼフルはこれを受け、ゴンダルへ軍勢を率いて入った。だが、ゼフルの目論みは簒奪にあり、1769年にイヨアス、メンテワブを殺して最高権力者に名乗りをあげる。諸侯であるラスが王の中の王を殺害して君臨したこの象徴的な事件は、「諸公侯時代(英語版)(ザマナ・マサフェン、ラス達の時代、審判の時代)」と呼ばれる戦国時代の嚆矢となった。
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