ヤマトヒメ・ヒコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 16:32 UTC 版)
記紀伝承にはヤマトヒメとヤマトヒコすなわち日本の女性統治者と男性統治者を意味する名前も崇神天皇期前後に見つけることができる。ヤマトヒメでは、ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)を始め、その母、ヤマトカグアレヒメ(意富夜麻登久邇阿礼比売)や叔母のヤマトトトワカヤヒメ(倭飛羽矢若屋比売)、崇神天皇の子でチチツクヤマトヒメ(千千衝倭姫命)、垂仁天皇の子でヤマトヒメ(倭姫命)などの例がある。ヤマトヒコでは、崇神天皇の子にヤマトヒコ(倭日子)、景行天皇の子にヤマトネコ(倭根子)やヤマトタケル(倭武)といった例がある。このヤマトヒメ・ヤマトヒコの伝承はこの時期の日本で男女の共立的統治の志向があったことを示唆すると言える。しかし、記紀伝承は男子の天皇の単立的統治を正当として、女王やヒメヒコの共立的統治を記していない。垂仁天皇が皇女のヤマトヒメを伊勢神宮に斎宮として送ったとの伝承は、日本におけるヒメヒコ制の終わりを意味している。 ただし男女の共同統治の伝統はその後も消えず、直系の天皇後継者が絶えた継体天皇期には再びヤマトヒメ(倭比売)やヤマトヒコオウ(倭彦王)をその傍証だとする説もある。推古天皇期においても推古天皇がヒメ(兄)を聖徳太子がヒコ(弟)を担い共同統治をしたと見ることが可能である 。
※この「ヤマトヒメ・ヒコ」の解説は、「ヒメヒコ制」の解説の一部です。
「ヤマトヒメ・ヒコ」を含む「ヒメヒコ制」の記事については、「ヒメヒコ制」の概要を参照ください。
- ヤマトヒメヒコのページへのリンク