モレー・ハ・ネボヒーム
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ラムバムはその生涯において多くの著書を公表したのだが、それらは大きな賞賛で迎えられる反面、各方面でさまざまな物議をかもした。とくに容赦のない反論を浴びたのが『モレー・ハ・ネボヒーム』で、哲学的な問題を中心とした同書では伝統的なユダヤ思想をギリシア哲学の用語で解説しており、これを「奴隷化」として反論者により糾弾されたのである。同書にまつわるヘーレムがらみの論争が起きたのは1232年、南フランスのモンペリエで、これは同書が公表されてから40年も経った後のことである。論争の発端はシュロモー・ミン・ハ・ハル、およびその他2名の北フランスの賢者らが、同書におけるアレゴリーに満ちたトーラー(モーセ五書)への注釈、および難透難解な論考に対する不快感を公然と訴えたことにある。北フランスの賢者らはこの訴えだけに満足することなく、ついには同書にヘーレム(禁書)を科し、続いて『ミシュナー・セフェル・ハ・マダア』もヘーレムに処した。さらには南フランスとスペインのユダヤ人共同体に対してもヘーレムを科すべく請願した。一方のモンペリエの賢者とラムバムの支持者らは、これらの措置に対抗するかたちでシュロモー・ミン・ハ・ハルと彼の弟子らに対してヘーレムを宣告した。同書に対する敵意はキリスト教界隈からも起こり、翌1233年には複数のラムバムの著書と共に焚書に処されている。
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