メディオラヌム略奪(538年4月 - 539年3月)
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「ゴート戦争」の記事における「メディオラヌム略奪(538年4月 - 539年3月)」の解説
538年4月、ベリサリウスはローマに次ぐイタリア半島第二の人口と富を有するメディオラヌム(現在のミラノ)からの請願を受け、ムンディアル率いる兵1000を派遣した。派遣部隊はメディオラヌムとティキヌム(Ticinum)を除くリグリア地方のほとんどを苦もなく確保した。だが、ウィティギスがフランク王に助けを求めると1万のブルグント族が予想もできない速さでアルプス山脈を越え、ヴライアス(Uraias)率いる東ゴート軍とともにメディオラヌムを包囲した。 町は食糧が不足しており、元々少数だった東ローマ軍は周囲の町や砦を守るために各地に分散しており守備兵も僅かだった。ベリサリウスは救援軍を送ったが、司令官のマルティヌスとウリアリスは包囲されている町を救出する何らの努力もしなかった。彼らは隣接するアエミリア地方で作戦行動中のヨハネスとイリュリクム管区軍司令官のユスティノスに援軍を要請したが、東ローマ軍指揮系統の分裂が事態を悪化させる。ヨハネスとユスティノスはナルセスの許可なく動くことを拒否し、さらにヨハネスが病になったことで準備が滞ってしまった。 これらの遅延はメディオラヌムに致命的な結果をもたらした。数カ月の包囲に耐えた町は飢餓状態に陥っていた。東ゴート軍は守備隊長ムンディアルに降伏すれば兵士たちの安全を保証すると約束したが、市民の安全が保証されなかったため彼は拒絶した。だが、539年3月になると、飢えに苦しむ兵士たちが彼に降伏の受諾を強要した。実際に東ローマ兵たちの命は救われたが、市民たちは虐殺され、町は完全に破壊された。
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